昭和47年11月20日 朝の御理解
 
                             中村良一

御神訓
  一、神は声もなし、形も見えず、疑わば限りなし。恐るべし。疑いを去れよ。



 疑うていたら限りがない。信心は、その反対を信じて疑わない。また、これも限りがない。疑えば限りなし。恐るべし。信ずれば限りなし、恐れなしも反対ですから、有難いということになるでしょうね。果たして、どれ程、どれだけの事が、信じられておるだろうか。信じておるようであって、実際は、なかなか信じられていない。そこで、神を信ずるということは、どういう事かと。姿も分からなければ、声も無いのですから。
おかげを受ける。おかげを受けるから、神様を信ずる。おかげを受けないから、神様を疑う。自分がおかげと思わせて頂いたら、神様も、そこに信ずる事が出来るのですけれども。それを、おかげでないと思うたら、神様を信ずることは出来ない。何とか、神様を信じたい。信じさせて頂きたい、という所に、焦点をおくということ。そこで、まぁ何時も言われる事ですけれども。おかげと言うものが、目当てではなく。信心というものが、目当てだという事にならなければ、神様を、本当の意味で、信ずることは出来ない。ただ、お願をして、おかげを頂く。奇跡的なおかげを受ける。神様のおかげを、そのようにして頂いておるから、もう本当に信心、切れ入りそうなもんだけれども、奇跡的なおかげを頂いたからというて、信心が続かない所を見ると、神様を信じておるとは言えないでしょう。神様を信ずると、信じて疑わないと、そういうことになって参りましたら、疑えば限りなし、恐るべしと仰るように。信ずれば限りなし、有難しという事になるのじゃないでしょうか。お互いが、おかげを頂けば神様を信ずる、といったような生き方が、如何に、いうなら、もろい信心、もろいものだという事が分かります。ですから、どうしても、おかげを頂きたい。けれども、おかげを頂きたいという事と同時に、信心を頂きたいということは、より強烈であり、強いものでなからなければならないかという事を、改めて分からせて貰う。そこで、信心を分かるということは、信心が身に着くという事である。
信心とは真心。信心とは信ずる心。信心とは神心という風に、信心の、一つの過程、段階というものを教えておられる。そこで、その神様を分からせて頂くために、その神様を信じて疑わない。そこから、限りない、恐るべしじゃなくて、限りないおかげを頂いて行く事が出来る。いわゆる、限りなし有難いという事になる。もうこら、本当にそうですよ。もうそりゃ、本当に、もう神様のお働きには恐れ入るというようなですね。おかげを受けてもね。それで神様を信じれるということにはならんのです。ならない証拠に、ほんなら、みなさんは、椛目時代から合楽にかけて、おかげを受けたと言う人は、どれほどあるやら分からんのです。恐れ入るなぁ、ほんにびっくりするごとあるねという様なおかげを受けたから、神様は信じられるとですよ。はぁ、神様ちゃ恐れ入ってしまうと、如何にも信じたように言いよるけれども。いつの間にか、それが、段々、薄いものになって行く。というて、なら、他でもお取次を頂いてお願をして、おかげを受けたといったような事がです。まぁ断片的に、おかげと実感する事が、年のうち何回かあるとしましょうか。けれども、なるほど、例えば、病気をした人が、病気でおかげを頂いたこと。体の上、病気の事ならば自身があるばってん、人生の事になると自身がないといった様な事を、よく言いますよね。例えば、さぁ手形。何時の、何日の何時までにというようにお願いをして、もう間違いなくおかげを頂く人があります。ですからもう、手形の事だけなら、神様を信じておるけれども。人間関係やら、健康の事には自信がない。神様の働きに、健康の事だから、人間関係の事だから、または、金銭関係の事だから、おかげを下さるように、違う筈は決してありませんよね。神様の働きは同じなんだ。だから、この事には自信があるけれども、この事には自信がないといった様な、いわば、程度にしか、神様を信じ分かる事が出来ん。それでは、信心じゃない。一切合財の中にです、神様を信じれれるおかげ。それにはです、言うなら、御利益であり、おかげであるという、そのおかげからは、神様を絶対神の、絶対信というものは生れてこない。
私共は、その絶対信の信心を頂きたい。それは、例えば、信心のない人やら、薄い人やらは、おかげではないと見るでしょう。けれども、絶対信の人は、それをおかげだと見、おかげだと信ずる。そこにです、初めて、限りない、いわゆる、信の世界、信の世界というのは信心の信ですよ。その信の世界に住むという事が、安心の世界に住むという事にもなる。神様を信ずる。信の世界。真の世界。この世は神国と言われる神の世界を、そこに感ずることが出来て、有難い、勿体ないの信心生活は、そこから始めてなされるのであり、出来てくるのである。
昨日、北九連の青年信徒の方達の信心実習が、ここで持たれました。山口の森定という先生。山口県の教務所所長を、全国で、一番若い教務所長だそうです。なかなか、がっちりとした、ほんにしっかりとした先生でした。お話も、大変お上手でした。まぁいろいろと、こうお話を聞かせて頂きました中に、天地のリズムという事を説かれております。はぁ、天地のリズムということは、私の専売特許のように思うとったけれど、これは、やっぱり、他の人も、やはり使う。他の人から初めて聞きました、天地のリズムという事を。天地が、まぁ働きの中に、一つのリズムを聞く様なと言われます。それで、私は、昨日はもう、まぁいうなら、眠り半分で聞きよりましたもんですから、どんな話をなさったか、ところどころしか覚えてないけれども、その天地のリズムという所だけは覚えておった。昨日、みんなの来られた先生方、幹部の方達に、夕食を上げます時に、大変、お神酒も強いお方でしたが。まぁこれで止めましょう。もうこれでご飯にしましょうと。ほんなら、このお燗びん一本頂いてから、ほんならご飯にしましょうと言う訳で、二人でこう頂いた。そして、先生にお猪口を渡して、一番最後のところを、こう注がせて頂いたら、半分しか無かった。いわば、お積りが悪かった。お積りと申しますよね。それで、私が、もう良いですからご飯にしよう。いいや、もう一本頂いて、私がこう申しました。いいやもうとこう言う訳ですよ。けどもね、こう言う所に、天地のリズムを聞かないとね。それこそ、怪我するよと私が申しました。自分の話した事を、もうこのくらいに素晴らしくキャッチしておるのですから、話としては、もう大変に喜ばれました。先生も、初めて、私の話した事をですね。そのような、微妙な頂き方をしておられる先生に、初めてお会いしましたと言う訳なんです。例えば、お神酒の、言うなら、盃のやり取りをしておる。だから、お積りが、悪い時には、こりゃもう一本飲んでも良かとでしょう。そして、はぁちょうどよかお積りという時に、止めさせて頂くという事はです。これはやはり、天地のるずムを聞いておる人でなからなきゃ、意味が分からん。だから、もう一本頂く、二本めに頂いた時には、きっちりよかお積り。はぁ、これで天地のリズムに乗ったんですから、もう今日は大丈夫ですよという訳なのです。
ここから、甘木の教会にお出でられました。九州も初めてですから、折角、合楽の教会に来てから、まぁ九州では甘木と言われるのですから、甘木の教会におかげ頂きたいという訳なんですね。合楽の方達の場合は、そういう一つの、生き方というものを、段々、みなさん、身につけておいでられるように思う。そこに、神の姿を見、そこに神の声を聞く。神には声もなし、形も見えずと仰せられるけれど。私共が、天地の、いわゆる、旋律とでも申しますでしょうかね。それに、いうならば、便乗した、それに、乗っての生き方というものを、段々身につけて参りますと。そこに神の姿を見る事が出来る。そこに神の声を聞く事が出来ます。そういう意味において、段々、天地と共にあるというか、神様と共にあるという信心を身に着けて行く事が出来る。けれども、これによって、ほんなら、限りなし、恐るべしと仰せられる。信ずれば、また限りなし有難しという、限りないおかげには繋がらない。神様を、ここに身近に感じておる、神の声を、ここに何時も聞いておる。神の姿を、いつもそこに見ておる。それは、お神酒の、いわゆるお酒の、盃のやり取りの中からにでも、天地のリズムというものを聞き得るところの信心を身につけることは尊い。けれどもね、いわゆる、限りないおかげに欲させて貰うということは、やはり、限りなく信じれれるということは、それは、ほんなら、金銭関係の事であろうが、病気の事であろうが、人間関係の事であろうが、おかげになると、こう信ずるという事である。その信が、限りないおかげに繋がって行くのである。ですから、私共は、信心をさせて頂いて、御教えをきられておりますとです。そこに、天地のリズム、天地の音律をです、聞き取らせてて頂けれる言うならば、細かい神経を、日常生活の上に使わせて頂くということ。そこにです、何時も神様を外さんで済む。いや、神様と共にあるところの信心によって、まぁいうなら、楽しい信心生活が出来る。そういう信心を身にjつけて行かなければならないという事と同時に、絶対信の信心を、私共が頂かせて貰うよう、限りなく信じさせて貰えれるおかげを頂く。
今、申しました所には、神は声もなし、姿も見えない。形も見えない。疑えば限りが無い。確かに、そういう神様である。自分の心というものが、ある事はあるけれども。それを、ほんなら、医学的に解剖して、はい、これが心だという事を見せる事が出来ないようなものなのだ。確かに、心はあるに違いはない。証拠には、嬉しかったり、悲しかったり、心が感じておるのである。だから、心がある事はあるのだけれども。心を見る事が出来ないように、神様も、やはり、見る事も聞かせることも出来ないけれども。それを、そうと信じて頂けばです。限りないおかげに繋がって行くだけではなくて、限りなく、声も無い、形も見えないと仰るけれども、これこそ神の姿だ、これこそ神の声だと思われるようなものを、いうなら、心に感ずることが出来る。天地の音律を聞かせて貰えれる。信心の稽古をさせて頂くと、そこまでは頂ける。けれども、限りなしという所まではいけない。限りなく信じれれると。そこから、限りないおかげに欲する事が出来るのです。さぁそこでです。いよいよ、絶対信のおかげを頂くために、信心とは真心、信心とは信ずる心、信心とは神心という、こういう信心の、一つの過程をです。私共が、いよいよ、身につけて行かねばならん。いよいよ、神心を目指さなければならないという事になるのです。
どうも、家の子供は信用が出来ん。どうも、家の親父は信ずる事が出来ない。親と子がです。そこに信じ合えるのではなくて、信ずる事が出来ない親子ほど、不幸せな者はない。私共が、神様を信じ、また、神様から信じられる。これが、信心の一番の幸せだ。神を信ずる氏子は多いけれども、神に信じられる氏子が少ないと仰せられるように。神様に信じられる私にならせて頂く時にです。これは、自然と、神を信ずることの出来れる働きが頂かれるのだ。結局、一番肝心なところは、そこだという事になります。神に信じられる氏子にお取り立てを頂かなければならないという事です。なるほど、神様は信じられない。けれども、神様の御教え、教祖金光大神の教えられる御教えを、本気で行じて、改まらせて頂く事にも、研かせて頂く事にも、本気で研くぞ、本気で改まるぞという事になる時にですね。不思議に、神様を信ずる事が出来れる事になるのです。改まらずして、研かずして、教えを行じずして、神様を信ずることは出来ない。いわゆる、神様を信ずる事が出来る様になって、初めて、神様に信じられるところの氏子にお取り立て頂く事が出来る。家の子供は信じられん。家の親父は信じられんと、親子が反目しあっておる、疑い合っておると、それで、子供に自分を信じさせようと。親父に自分を信じさせようと。信じてくれなければ出来ん。だから、自分自身が、自分を信じる事の出来れる術というのはです。人を信ずる事が出来ないじゃなくて、自分自身が、私は、信じられるところの生き方にならなければ、人を信ずることも、親を信ずることもできないと、私は思う。いうなら、自分を信ずる事が出来るということは、自分で自分の心が、拝めれる、拝みたいほどしの心ということなんだ。自分が信じられるということは。何と、有難いことを思うておる自分だろうかと。何と、変わり果てた自分だろうかと、有難い意味合いに於いて。これが、自分を信ずるということなんだ。自分の心が、いうなら、一歩一歩、神に近づいて行っておる姿なんだ。だから、自分の周囲にはです。あの人も仏様のような人、あの人も神様のような人に見えてくるのである。いうならば、人を信ずる事が出来るのである。
皆さん、今日、私が、みんなに聞いて頂きます。天地のリズムを聞けれるようになるということも、本当言うたら、研かなければ、改まらなければ、教えを頂かなければ、天地のリズムを聞きとる耳が生まれて参りません。いわゆる、雑音になって聞こえてくる、しかも。これは、楽器なんかをやる人が一番分かる。例えば、三味線なら三味線を弾きますのにです。三味線の調子が合うまでには、やはり、ひと苦労要るんです。それが分からない時には、どれが二上がりやら、三下がりやら、本調子やら分からないでしょう。稽古に稽古をして行きよるうちにです。もう、何十丁の三味線で弾きよっても、ちょこっと音律が狂うても、あ、誰か狂うとるぞと、すぐ分かるんです。自分自身も分かる。ですから、信心の稽古もですね。やはり、自然の、その、いわゆる天地のリズムを聞きとるためにも、やはり、そういう修行が要るです。けども、それだけでは、いわゆる、限りなしという、限りなく神を信ずる。いわゆる、絶対信は生れてこないといういこと。絶対信というものは、やはり、自分自身が信じれれる。自分自身が、我とわが心が拝めれるという様な信心目指さない限りです。絶対信は生まれてこない。いうならば、神様に信じられる氏子にお取り立てを頂くという所からです。もうこれは、無条件というかね、無条件に神様を信ずる事が出来る。いわゆる、限りなく信ずる事が出来るのである。絶対、おかげになると確信できる。もうとにかく、信心は、改まらにゃ駄目です。本気で研かにゃ駄目です。そこから、神様を限りなく信じさせて貰う。疑えば限りなし、恐るべしとある様に、その反対は、信ずれば恐るべしというほどしの有難いおかげに触れていけれる。いわゆる、無尽蔵、限りのないおかげに欲していけれる。もう、そこにはです、その全てがおかげ、いわゆる、金銭関係、人間関係、健康の事だけという様なものではない。そういう信心を目指さなきゃならん。そこで、一番初めに申します様にです。どんなに、奇跡的なおかげなら、おかげを、連続的に頂きましてもです。はぁ神様ちゃ、まったく、間違いのないお方だなぁ。神様ちゃ有難いなぁ。早うこげなこつなら信心すりゃ良かったと、今日は言いよってもです。そういう信心からは、絶対信は生まれて来ません。おかげも頂きたい、けれども、信心を、いよいよ頂きたいという信心にならなければならない事が分かる。信心を頂きたいと願う所から、本気で、改まりもしよう、研きもさせて貰わなければ、その本当の信心は分からんのですから。また、それを神様は、要求なさいますから、信心が分かりたいという事になれば。頂きたいという事になれば。そこんところの稽古をです、本気で、させて頂かなければいけないと思うですね。どうぞ。